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7 男色家・藤原頼長の自己破綻|『台記』の院政期 神田龍身 著

この本で「男色」とはじめて触れ合ったので、とりあえず整理をしようと思います。
自分なりの解釈が入ってしまっているので決して本編の要約ではありませんし、同時に、すべてわたしの研究結果でもありません。
あくまで神田氏の本を読んで「どう自分なりに噛み砕いたか」をかいて整理しているにすぎませんので、誤解のないようにお願いします。

1鳥羽院と頼長
頼長と鳥羽院の男色話題のにやつくやりとりが描かれています。

2男色ネットワーク①
頼長を院近臣の男色ネットワークへと駆り立てたものはなんなのか。「諸大夫」の「僭上」として蔑視していた家成家明の関係者とあえて男色関係を持っていったのは、それらを男色によってとりこもうとしていた頼長の姿勢がみられます。頼長は鳥羽院に取り入るために男色をもちいる院近臣とは違い、鳥羽院と同等の地位にあろうとしていたようです。

それまでの摂関時代は天皇と臣下は律令を持って整備されており、天皇と関係を結ぶには皇后や女房を経なければならなかったのです。そこで天皇と関係を持つことが難しい人々が、天皇とその周辺権力の外で院と結びつくようになり、院と体の関係を持つことで院とのつながりができるようになりました。しかし、この関係は決して文書化されるようなシステムではないため、簡易に関係を持てると同時にもろいもののようでもあったそうです。

注目したい点は、男色ネットワークに介入する頼長のスタンスはあくまで男色ネットワークを束ねる中心的存在で、それは鳥羽院に同等するものであるということです。院近臣たちはネットワークの末端的存在であり、贔屓をしてもらうために体を許していますが、頼長は決してそうではなかったのです。鳥羽院と張り合いながら愛人を取り合いつつ、自らの人脈を男色によってつくっていこうとしていたのでした。つまり、院政を批判し摂関時代の再興を考える頼長の政治理念に違わないのです。

3男色ネットワーク②
『台記』によると、頼長は隆季を崇徳院と結ばせる仲介役をしています。自らの愛人を崇徳院に引き合わせつつも、自分は崇徳院の寵臣・為通と関係を結びました。鳥羽院に対するスタンスと同様に、頼長は崇徳院に対しても自分の体を捧げるわけではなく、自分の男色関係を持ったものを結びつけることで、ネットワークの所持者として存在することを望んでいたようです。

村上源氏成雅との関係を必要に固執する頼長についての指摘もあります。なぜ家柄も対してよくない成雅に頼長はこだわったのでしょうか。その理由は成雅が忠実の寵臣であったためです。忠実の成雅の扱いにまつわるエピソードでおもしろいものがあります。康治2年、成雅が乱闘騒ぎを起こしたため頼長は成雅を解官しました。するとその処罰に憤慨した忠実は半年頼長を面会させなかったというのです。忠実と成雅の関係があったのかどうか、明確にできる史料は挙げられていませんでしたが、(それでも成雅は忠実に寵されている人であると『今鏡』に記載されている)頼長は父がひいきしている成雅と関係を結び、成雅を自分よりにすることで、父を越そうとしていたのではないのでしょうか。

頼長は、鳥羽院、崇徳院、忠実それぞれと自分も同じ立場になり対抗していきたかったのです。その対抗する媒体が、男色であったのでした。

4暗号表記
ちょっと疲れたので省略します。。。´oдo

5支配としての男色
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読んだ本を記録していくという目標を持って、歴史書を読む機動力にしようかと…´oдo
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